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2006年 06月 30日
2003.4.1(同日の日記「ぬのにちにち」より転載)
忙しいけれど書いておかなくてはならないことってあるものです。 3月29日。「解体社のオーストラリア大使館」としか呼んだことがなかった(情報もらったのが直前だったし)公演。ええと、正式には。 Australia-Japan Intercultural Collaboration Project 日豪国際コラボレーション作品/屋内・外 移動演劇 遊行の景色X −− 戦争身体 −− THE DRIFTING VIEW X −−BODIES OF WAR −− 2003.3.27(Thu.) - 29(Sat.) start 19:30 場所 オーストラリア大使館(麻布十番駅より徒歩二分) @AUSTRALIAN EMBASSY,Tokyo ちなみにAdmission fee= 3,000yenでした ちなみに入場のとき写真つき身分証明書の呈示を求められました。 ふう。 備忘録だから論理もへったくれもなく書き飛ばすからごめんなさい。 入ったときははじまったばかりで。コンクリートの中庭。舌を喉に詰まらせて喋りにくそうになにか訴える男の声をバックに、13人だったか?半裸の人が並行に行き交っている。超ゆっくり。ゆっくりは舞踏のおやくそく。衣装来た人は、マッツ・エクの(というかクルベリーバレエの、というべきか)「ジゼル」みたいな病衣、頭に包帯のようなもの。最初入ったすぐのところでみていたんだけど、どうもここが正面らしいと気がついて、ぐるりと半周した。大当たり。入ってきたところの上に巨大な映像がうつっていた。口だ。舌が喉につまりそうなのに無理して喋ってる口だ。ビルの窓と壁とにいっぱいに大写しの、口だ。緩慢に動く人と口とを交互にみていた。たいくつ。たいくつなのはおそらく言葉として発せられているメッセージを受け取れなかったからだろう。英語だったのか?違うのか?音悪かったというか苦痛を押してしゃべってるかんじで聞き取りにくかったし。兵士の断末魔かいな。 しばらくすると、入ってきた中庭と入り口を結ぶシャッターが、閉まった。 致命的に遅刻しなくてよかったと心から思った。いや非常口のような小さな出入り口はあったようだが。 その次が一番好きだったシーン。 いきなりボディコンタクトをやるダンスって少ないよな。いや私はそう思うんだけど。歩いてた人たちがいきなりぶつかりだした。というか、なんていうんだろうな、だれか(主に女性)が投げ出した身体をだれか(主に男性)がストップする。肉のぶつかる音がはっきりと聞こえる。まあそのくりかえしで、ボディによるコミュニケーションとはいいがたいところはあるかもしれないけど。 そして、移動。入ってきた口(シャッター)の向かいへ、観客が動き出した。 「うごきますから」と、をるがさんに聞いてはいたが、そういうことかい。 別に観客を移動させる芝居であること自体に驚きはなかった。なぜかというと、2001年9月に、ええと、手賀沼調整池だったか?の底(!むろん水は一部の区画を除いて入っていない)で行われた不思議なインターナショナル・オペラを見ていたから。オペラ歌手と、舞踏ダンサーと、子供の祭り踊りみたいなのと、室内楽団と、市民合唱団。並べるだけで不思議。めちゃ面白かった。そんときの印象がある。 それは余談だけど、よっこらしょっと立ち上がってええとどっちへ行くのなんていいながら移動してどっこいしょっと新しい風景の前に座りなおすと、頭の血が普通の額縁劇場を見てるときとは違うところを流れるようで、、、、ええと、主に発し手に有利だと思う。見てるほうは思考をぶった切られる。 で、移動した先はバックヤードなんだけど、桜の巨木が三本。8分は咲いていた。ライトアップされてむらさき(と私には見えた、ような記憶がある)に輝いていた。またも立ち尽くす人たち。今度はみんな文化背負った着衣。キリスト風?のぼろ着た長髪の白人にーちゃんが祈って?いた。ソムリエ風の服来た短髪白人のにーちゃんが赤ワインを、女性のグラスに注ぎ、そのあとキリスト風の脇に、地に、たらした。それを手で受けるキリスト風。 記憶は断片的だが演じられていた芝居も断片のように思うぞ。 スケッチブックに「あんたの言葉には行間がない」なんて意味の英語(英語だから覚えられなかった)を何ページかゆっくりめくってみせてた白人にーちゃんがいたり。 キリストは真ん中でしゃがんでいたかと思うと、うーーんと上手の一段高いところ(散策用の丘みたいなところ)にたって、というか、たたずんでいたり。 とにかく全部で13人いた。ああ今思った、この人数には意味が持たされてるかも。 カーキの旧日本軍風なせのひくいイエローのおじさんが、なんかひとことずつ叫びながら、すんごくきれいなチマチョゴリ風ドレスの上を脱いだおねーさんの背中を、平手で叩くの。このあたりからパンフ事前にみなくてもテーマはわかりはじめる。でもそのあとこのふたりはまぐわい風の動きをするんだよね。でもじゃない、だからなのか、あっそうか。 庭が美しかったのがものすごく印象に残っているというか、盛り上がってもいいような場面でも動きは、というか、間が、すごく、とられていて、結果、風景に遠慮してるのかなという印象が残った。庭に人を置くだけで美になると。まあそういうわけなんだろう。 ここでまた移動。今度は地下?少し寒くなりはじめていたからやれうれしやと入った部屋は、なんかリハーサル室みたいな木の床の殺風景な部屋。ここでも外周に添って客は立つなり座るなりする。 おもいだした。半裸の日本人?のねーちゃんがいたんだ。外では上に下着をつけていたが、このシーンでは取って、震える。このひとが震えながら移動するのにしたがってここまで降りてきたんだった。正面中央の壁にむかってねーちゃんは震えつづける。しまいには背中に汗が光りだした。それから、女性用しめつけ系の下着(ウエストニッパーつきブラとガードルだな、具体的には)を着た人がいた。この人はシーン1にもいた気がする。他あまり覚えてないんだよね。そうそう、声を出しているホワイトのにーちゃんがいた。言葉は聞き取れない。英語ではなかったと思うが自信ない。リスニング苦手。佳境(何がかきょうだったろうか)に入った頃、ファイバースコープで自分の口を映していた。振り出しに戻ったか。そうそう、映された映像は、マッチョが二人小型のモニターをかついでゆっくり歩き回って観客に見せていた。 カーテンコール(カーテンないけど)もファイバースコープ。正面の壁に並んだダンサー(といっていいんだよな)の顔をひとりずつなめるように映す。そのあと灯りがついた。 最近思う、美しさって我慢することかも。 うごかない、長さの割にあまりにも動きの少ない芝居だったけれど、こういうの好きだよ。見習える部分もありそうな気がする。 #
by swampland
| 2006-06-30 09:07
| 舞台等評
2006年 06月 30日
『黒耀宮』黒瀬珂瀾歌集
2002年12月28日発行 ながらみ書房 2500円+税 四六版 160ページ いわゆる歌壇の慣習に則った形式のなかで自分を出すことも可能なのだ。 中部短歌叢書第199篇。巻頭に著者の師、春日井健氏の解説。発行からそろそろ一ヶ月経つがネット書店で検索してもヒットしない(怒)。 大辻隆弘氏がこの本のサイトの掲示板で書いていたが、私も一気に読めた。構成がいい、という表現だとなにかぴんとこないが、著者あとがきの冒頭の「僕は物語を書き綴るつもりでした」から、読みやすさの理由が分かる気がする。 装丁は微妙にポップでレトロ。蔓植物に首をとられて口づけする青年の絵。蔓はいい。 2003.1.12 #
by swampland
| 2006-06-30 09:04
| 書評・文章等評
2006年 06月 30日
(同日の日記「ぬのにちにち」より転載
2003年12月1日(日)16:00〜18:20(休憩20分あり) @神奈川県民小ホール(第45回舞台芸術講座) オイリュトミーはまったくの初見。第一部レクチャーがなかったら何やってるかわからなかっただろう。 音から生命力を抽出するのが目的だというような意味のことを講師の笠井叡氏は言っていたと思う。 言葉の場合、5母音、12子音(ドイツ起源の方法だからドイツ語の子音らしい)。音楽の場合7音階に7和声、そういったものにみんな振りのエレメントが定義されているらしい。それぞれ右手、左手、体幹を統合したり独立したりして使うらしい。 脚はひたすら移動に使われる。五芒星と円形という言葉を耳にした。他にもフォーメーションはありそうだ。 衣装は統一されている。スタンドカラーの長袖のロングのワンピース。その上にシフォンのボレロ。どちらも無地。タイツ。同色の靴。底が柔らかいがバレエシューズとはちょっと違うみたいだった。 で、第2部「日本近代文学とバッハを踊る」で実演をみた印象。 キリスト教の修道院の修行僧を連想した。 エレメントを全部知っているわけでない、というか、第一部で説明されたのを全部追いきれるわけがないのだが、音楽につけた作品で複数の踊り手がいる場合、誰がどの音を表しているかというのがよくわかる。 バッハのピアノソロおよびオルガンソロの演奏。 1曲めのパルティータ第2番では男女がそれぞれ低音域と高音域を受け持っているように思った。複雑に旋律が絡み合う曲(ラストの幻想曲ハ単調)では7人が、なんといおうか、「隙間なく」旋律を身体で表している。この群舞がいちばん面白かった。 音程と音の変化に対応する形を間断なくあらわしながら、音があらわす生命力を拾い上げ、それを身体から出しながら、おそらくは作曲家がこの旋律や全体に込めたかった力を拾い上げて表す作業も、やっているだろう。密度が高く、力強い。 しかし、群舞なのに各人の身体が触れることは、ない(アクシデントを除く)。 触れれば触れたこと自体から固有の関係ができてしまうし、洋舞だから個が強い西洋思想に根ざしているだろうし、何かを実現するために取捨は必要だろうし、仕方ないのだろうが、7人も舞台にいて、めまぐるしく位置を買えながら、個々人は規則にのっとって視線を上げ下げしながらひたすらおのれの領分を力演している姿は、やっぱり禁欲的といいたくなるものがある。 朗読は太宰治、永井荷風、稲垣足穂。すべて笠井叡のソロ。「エフェソスの発声法 」というらしい、子音と母音を意識していると思われる非常にゆっくり、いやゆったりしたしかも力強い読みで朗読がなされる。これはねえ、どうかなあ。思想を知らないから勝手なこというけど、アダンとかミンクスとかの曲を思ってしまった。踊りのために音楽が譲歩というか最大限引いてる。 いや、朗読は引いているわけではなかった。繰り返すが、力強いのだ。それほど言葉の意味にそったアクションが声にこもるわけではないが、それから、ただ聞いて観賞するには耐えがたいほど遅いのだが、なんというか、読みは読みで納得させられるものがあった。「いまのよのなかでいちばんうつくしいのは、ぎせいしゃです(斜陽)」 オイリュトミーのことを三島由紀夫は「現代の古典」とか称したそうだが(起源は1911〜2年頃だそうだから他の舞踊に比べて現代といっても言い過ぎではないのだ)、既にオイリュトミーをめぐってコミュニティ(オイリュトミー壇?)も形成されつつあるようだ(ひらたくいえば教室とか会とかいろいろできている)が、さて、いかがなものか。 まだまだ考えることは残っている。 そうだな笠井叡の踊り。オイリュトミーのメソッドと思想、題材に選んだ作品の構造と思想、すべて吸収して統合していた、ように思った。メロディに追われたりテキストに呑まれることなく、オイリュトミーを踊る姿には、追求する生命力を凌駕せんばかりの踊り手の生命力を感じる。 #
by swampland
| 2006-06-30 05:40
| 舞台等評
2006年 06月 29日
タイトル 毒姫 (2)
説明2005 朝日ソノラマ 三原 ミツカズ レビュー いやついこの間『死化粧師』について優れたストーリーテラーが好きだと書いたんだけど、この作品ではそれが裏目に出ましたね。だれもゴスロリの死のイメージ満載のこの設定に物語を期待していませんって。ここは詩人になって頂かなくては、っていうか、男はいらん!ひたすら毒姫のかなしみのフラグメンツを書き続けてほしかった。まさか柘榴の前身までつじつまが合わされるとはおもわなかった。がっかり。 2006.03月11日 02:49 #
by swampland
| 2006-06-29 15:30
| 書評・文章等評
2006年 06月 29日
タイトル 涼宮ハルヒの憂鬱
説明2003 角川書店 谷川 流 レビュー ちなみにアニメは未見です。あしからず。 名言その1。「何と大風呂敷なことか!」本書解説より。 名言その2。「なんだその設定は」登場人物柊恵一サマの台詞、おっと別の作品でした。 前半引っぱり過ぎて、文章が読みやすくなかったら、途中で投げ出してしまおうかな、というところから急転直下に物語がころがりはじめまつ。 2003年角川スニーカー大賞受賞作だそうですが、 ツンデレもメガネッ子もコスプレも、それになによりスラップスティックは既にこのころ市民権を得ていたという参考になりました。 いやしかしラストが・・・ かわいいでしゅ。なんともいえず。 また柊恵一の気分。 しかし、「憂鬱」でここまで突っ走るなら「暴走」(文庫5册目だっけ)に、期待して、いいんでしょうか。どうなんでしょうねー。きになる。 2006.03月03日 15:17 #
by swampland
| 2006-06-29 15:24
| 書評・文章等評
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