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2006年 06月 30日
(同日の日記「ぬのにちにち」より転載
2003年12月1日(日)16:00〜18:20(休憩20分あり) @神奈川県民小ホール(第45回舞台芸術講座) オイリュトミーはまったくの初見。第一部レクチャーがなかったら何やってるかわからなかっただろう。 音から生命力を抽出するのが目的だというような意味のことを講師の笠井叡氏は言っていたと思う。 言葉の場合、5母音、12子音(ドイツ起源の方法だからドイツ語の子音らしい)。音楽の場合7音階に7和声、そういったものにみんな振りのエレメントが定義されているらしい。それぞれ右手、左手、体幹を統合したり独立したりして使うらしい。 脚はひたすら移動に使われる。五芒星と円形という言葉を耳にした。他にもフォーメーションはありそうだ。 衣装は統一されている。スタンドカラーの長袖のロングのワンピース。その上にシフォンのボレロ。どちらも無地。タイツ。同色の靴。底が柔らかいがバレエシューズとはちょっと違うみたいだった。 で、第2部「日本近代文学とバッハを踊る」で実演をみた印象。 キリスト教の修道院の修行僧を連想した。 エレメントを全部知っているわけでない、というか、第一部で説明されたのを全部追いきれるわけがないのだが、音楽につけた作品で複数の踊り手がいる場合、誰がどの音を表しているかというのがよくわかる。 バッハのピアノソロおよびオルガンソロの演奏。 1曲めのパルティータ第2番では男女がそれぞれ低音域と高音域を受け持っているように思った。複雑に旋律が絡み合う曲(ラストの幻想曲ハ単調)では7人が、なんといおうか、「隙間なく」旋律を身体で表している。この群舞がいちばん面白かった。 音程と音の変化に対応する形を間断なくあらわしながら、音があらわす生命力を拾い上げ、それを身体から出しながら、おそらくは作曲家がこの旋律や全体に込めたかった力を拾い上げて表す作業も、やっているだろう。密度が高く、力強い。 しかし、群舞なのに各人の身体が触れることは、ない(アクシデントを除く)。 触れれば触れたこと自体から固有の関係ができてしまうし、洋舞だから個が強い西洋思想に根ざしているだろうし、何かを実現するために取捨は必要だろうし、仕方ないのだろうが、7人も舞台にいて、めまぐるしく位置を買えながら、個々人は規則にのっとって視線を上げ下げしながらひたすらおのれの領分を力演している姿は、やっぱり禁欲的といいたくなるものがある。 朗読は太宰治、永井荷風、稲垣足穂。すべて笠井叡のソロ。「エフェソスの発声法 」というらしい、子音と母音を意識していると思われる非常にゆっくり、いやゆったりしたしかも力強い読みで朗読がなされる。これはねえ、どうかなあ。思想を知らないから勝手なこというけど、アダンとかミンクスとかの曲を思ってしまった。踊りのために音楽が譲歩というか最大限引いてる。 いや、朗読は引いているわけではなかった。繰り返すが、力強いのだ。それほど言葉の意味にそったアクションが声にこもるわけではないが、それから、ただ聞いて観賞するには耐えがたいほど遅いのだが、なんというか、読みは読みで納得させられるものがあった。「いまのよのなかでいちばんうつくしいのは、ぎせいしゃです(斜陽)」 オイリュトミーのことを三島由紀夫は「現代の古典」とか称したそうだが(起源は1911〜2年頃だそうだから他の舞踊に比べて現代といっても言い過ぎではないのだ)、既にオイリュトミーをめぐってコミュニティ(オイリュトミー壇?)も形成されつつあるようだ(ひらたくいえば教室とか会とかいろいろできている)が、さて、いかがなものか。 まだまだ考えることは残っている。 そうだな笠井叡の踊り。オイリュトミーのメソッドと思想、題材に選んだ作品の構造と思想、すべて吸収して統合していた、ように思った。メロディに追われたりテキストに呑まれることなく、オイリュトミーを踊る姿には、追求する生命力を凌駕せんばかりの踊り手の生命力を感じる。
by swampland
| 2006-06-30 05:40
| 舞台等評
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